私は昭和42年(1967)京都大学工学部修士課程を修了し、三菱電機株式会社に入社、中央研究所に配属となった。中央研究所では、O博士の研究室でサイリスタインバータの回路解析を担当した。その後システム部に移り、京都大学のN教授のご指導を受けて、道路交通流理論の研究を始めた。道路交通ネットワークと電気回路ネットワークの類似性に着目し、交通流配分の均衡解を定式化することに取り組み、数値解法を試みていた。
昭和48年(1973)の年末の或る日、中央研究所の私の所へ、三菱電機株式会社本社のS公共営業部長が突然訪ねてこられた。私は、入社以来中央研究所以外の人との交流は全くなかったので、何事が起ったのかと驚いた。S部長は、恵那山トンネルの電気設備一式を受注され、プロジェクトチームを創ろうとされていたのである。「チームのメンバーはほとんど揃ったのだが、道路トンネルの換気制御をやる人が見つからず困っている。中央研究所に道路交通流の研究をしている変人がいるという事を聞きつけて来た」のだという。私の上司のB部長の了解は既に得ているとのことであった。この突然の訪問によって、私は恵那山トンネルの換気制御に深く関わることとなった。
恵那山トンネルは、日本道路公団中央高速道路(現 中央自動車道)の長野県伊那谷と岐阜県木曽谷を結ぶルートとして選定された。伊那谷と木曽谷の間には、中央アルプスと呼ばれる木曽山脈が横たわっている。恵那山(2190m)は木曽山脈の南端にあり、恵那山トンネルは恵那山の北麓、長野県飯田市と岐阜県中津川市を結ぶ位置にある。中央高速道路で最難関工事であった恵那山トンネル(8.7km)は、8年の年月を経て昭和50年(1975)に開通した。
それまで我国には、昭和33年(1958)に関門トンネル(3.5km)、昭和38年(1963)に天王山トンネル(1.4km)等の本格的道路トンネルが供用されていたが、恵那山トンネルは我国初の長大山岳トンネルであった。当時世界最長の道路トンネルは、1965年に開通したフランスとイタリアを結ぶモンブラントンネル(11.6km)であった。恵那山トンネルは、日本一はおろか一躍開通当時世界第二位のトンネルに躍り出たのである。
恵那山トンネルの換気方式は、それまでの実績を踏まえ、モンブラントンネルと同じ横流換気方式が採用された。特筆すべきことは、換気用送排風機として世界で初めてサイリスタモータの回転数制御による可変風量制御が採用されたことであった。 (つづく)
参考文献:
[1] 日本道路公団名古屋建設局「恵那山トンネル工事誌」昭和52年(1977)7月
[2] 三菱電機技報Vol49,No.12 「道路トンネル用電機特集」昭和50年(1975)12月
恵那山トンネル写真 「三菱電機技法」表紙より引用